■ 5月8日(水) 千代田線・小田急線 沿線DAN歩 第6回 根津〜西日暮里 案内:栗山正雄さん
今日は晴天に恵まれ青空が空いっぱいに広がるウォーキング日和になった。 本日のコースは日本の著名な文人が多く住み、また時代小説に登場してくる地名が多くあり、わくわく気分で参加した。
不忍通りを千駄木方面に向かい一本目の細い道を左折、東京新聞前を通り異人坂を登りきった所の左側にサトウハチロー居宅跡の説明標識が立っていた。 この辺りは水戸家の中屋敷があった所で、町名は八代斉昭の歌から摂り「弥生町」と命名されたそうで、この地で縄文土器が発掘され、弥生式土器と命名された経緯がある。 此処から根津小学校脇の急な階段を下り歴史的建造物である根津教会を訪ねる。 大正8年に建てられ、国の登録有形文化財に指定されている。 根津神社は此処から直ぐのところにあった。 此処は「ツツジ」で有名だが、残念ながら盛りは過ぎ,華麗に咲き誇るツツジ群は見る事が出来なかった。 湯浅さんから浮世絵を通じてこの辺りの江戸時代の情景についての説明を聞き、境内を散策して乙女稲荷、6代将軍家宣胞衣塚、塞大神碑等々を拝見し、本堂をお参りしてから、S坂上の日本医科大学同窓会館の横にある漱石旧邸宅跡に行く。 漱石が「我がはいは猫である」を書いたところで、別名「猫の家」といわれている。 此処から暫く住宅街を歩き千駄木1丁目15の標識の所を左折、ほんだ家の横の狭い路地の階段を下った所に「千駄木ふれあいの杜」があった。 此処は太田道灌の小孫であった大田摂津守の下屋敷跡で、昭和初期までは大変風向明媚なところであった。 今では、住宅に囲まれた一角に緑を残す貴重な場所になっている。 ここから汐美坂の途中にある汐美公園で湯浅氏から浮世絵の解説をうけ、薮下通りを進み森鴎外記念館へ向った。 鴎外はこの地で半生を過ごし多くの作品を残した。 生前には多くの文人達が訪れ、文人達の社交場にもなっていた「観潮楼」と名付けた建物は戦災で消失した。 職員の方から森鴎外についての説明を受け、団子坂を下り、不忍通り沿いにある「杏花楼」で昼食をとる。 大変美味しい中華料理でした。 昼食後、団子坂を少し登り、直ぐ手前の狭い路地を右折し須藤公園に入る。 地形を立体的に巧みに構成して、遊歩道をめぐらした趣のある庭園で、高低差のある台地と低地を巧みに生かした公園斜面地には、クスノキなどの大木が豊かな緑をつくりだしていた。 千駄木のお屋敷町にある旧安田楠雄邸は、大正8年に建てられた近代和風住宅で、座敷から眺める純日本庭園は素晴らしかった。 平成10年に東京都の名勝として文化財指定を受けている。 安田邸を出てちょっと歩いた曲がり角のところに高村光太郎旧宅跡の標識がひっそりと立っていた。 そこから狸坂を通り「よみせ通り」に入ってすぐ右側にある延命地蔵で「長生きしますように」とお願いし、質屋のところを左折、谷川文具店の直ぐ先に「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)の説明板がある、「この辺りは「日暮の里」と呼ばれ、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった」と書いてあった。 修生寺の角を左折し富士見坂を上り切ると諏方神社がある。 谷中・西日暮里の総鎮守として広く信仰を集め、特に雪景色が素晴らしく「雪見寺」とも呼ばれていたそうである。 寺を出、太平洋美術会の前を通り、道灌山に入る。 入り口に「荒川区立西日暮里公園」と書かれていた。 説明板によると「かって、この地は太田道灌の砦に荷を運ぶ船人が目印にしていた船附松があり、筑波、日光山の山影を望める景勝地として、多くの人々が訪れた」とあった。 ここで湯浅氏から浮世絵を通じて当時の様子についての解説を聞き解散となった。 色々盛りたくさんで、楽しい歴史散策になりました。 栗山さん、湯浅さん本当に有難うございます。 |