■ 5月25日(水) 第7回田園都市線・半蔵門線沿線DAN歩 溝の口〜二子玉川 案内:金光さん
溝の口は、大山街道と府中街道が交差するところに位置して、二子村とともに江戸時代は宿場町として栄えたところである。 大山街道の前進は足柄峠を越える足柄道であり、やがて矢倉沢往還として整備され、東海道の脇往還として利用されるようになり、雨降り山と呼ばれ信仰を集めた大山詣でが盛んとなってから、大山街道と呼ばれるようになった。 宗隆寺に向う。 日蓮宗であるこの寺は、古くから御会式が行われ、10月21日の夜に万鐙が光の列を作って練り歩き、その賑わいは池上本門寺に次ぐといわれる。 この寺には日本最初の人間国宝に任ぜられた浜口庄司の墓がある。又この地で240年続く薬屋「灰吹屋」の三代目で芭蕉の門下生であった仁兵衛が芭蕉の句碑を此処に建立している。 此処から数軒のところに溝の口の総鎮守である溝の口神社がある。 この神社には勝海舟が書いた大きな幟が保管されている。 江戸の時代には川崎地域は大変水に不自由したところで、徳川家康は代官小泉次代夫に農業用水の建築を命じ慶長2年(1597)に二ケ領用水が完成した。 全長32kmあり、戦後は横浜の飲料水として利用さもした。川崎の発展のシンボルともいえる用水がこの二ケ領用水である。 この用水の上にかかる大石橋を渡り数10メートル歩くと街道沿いの左側に昔のままの灰吹屋の建物がある。 大山街道沿いには薬屋がこの一軒しかなく、又良く効いたとのことで大変繁盛したようである。 高津図書館の手前に江戸時代に作られた酒造りの店がる。釘を使わずに造られているそうで、貴重な建物である。 この図書館の庭は公園になっていて、岡本太郎の母親である岡本かの子と国木田独歩も碑があった。 此処からしばらく多摩川方面へ街道を歩くと岡本かの子の実兄である大貫雪之助の墓がる光明寺がある。寺内にはわが国最初の学校制度による学校が作られ「二子学舎」と呼ばれた。 更に、この先に小さな神社「二子神社」がある、その境内わきには岡本太郎の作品で、母をしたい「誇り」と題した彫刻がたっていた。 300年を超える古い神社と現代的な抽象彫刻との対比を興味深く眺め、二子の渡しの入り口と書かれた標識が立っている脇を通りぬく二子橋を渡り、多摩川の岸辺に降り、湯浅氏から浮世絵の説明を受け、記念撮影をし、ここで解散。 本日は好天にも恵まれ、短い行程だったので、疲れなく帰路につかれたと思う。ご苦労様でした。